部屋の時計は電波時計なのですが、電池替えをした時なかなか時間が合わない。電波を強制受信して合わせるのだけど、時計は一応グルグル合わせるふりをした後、全然変な時間になっている。何度やっても合わないのでどうしたものかと思っていたのですが、検索してみたらエアコンなど電波の出るものの近くだとノイズがあって正しく電波を受信できないそうです。そんなものかな…と半信半疑で隣の部屋に持っていって設定したら一発で合いました。そういうものか。ということで、暮らしの知識として、また、自分が忘れないようにブログに書いておくことにしました。

※ツイッターの方でつぶやいた話なんですが、結構インプレッションが付いたのでブログにもう少し詳しく書いておきます。

 
映画やドラマの脚本の中には観る人を感動させたり、「ゾワッ」とさせたり、カタルシスを起こすような型がいくつもあります。そんな中で以前から僕が好きなの型の一つが「これが後の忌野清志郎である」みたいな「のちの誰々」パターンです。ものがたりで描かれてきたこのフォーク少年(清志郎の場合)と自分が知っているその人の人物像とが一気に繋がって、なんか「ジャジャーン!」となるようなこの瞬間にカタルシスのようなものを感じるのです。

 
それはさて置き、この前「もののけ姫」を観てふと発見した、もしもの「のちの誰々である」パターンがこちら、「このアシタカが後の足利尊氏である」(↑イラスト)です。

 
説明するのはヤボですが、足利尊氏(アシカガ タカウジ)。当然、名前のもじりからの勝手な妄想ですが、どうなのかな?時代的にも近い感じがするので、もののけ姫のその後、アシタカが本当に足利尊氏になって天下を治めるストーリーなんて。


 その道を極めた人が何か別の分野のことをしても、すぐに感覚を掴んでうまくできたりするということがあります。また、違う分野の極めた人同士で話をしていると、お互い「あぁ、あの感覚!」と、違う分野なのに同じような捉え方をしているということがあるようです。そして、その共通した感覚がまさにこの世の真理に触れることであるかように思えるのです。

 そんなことを考えていたら、「そうか、世にある▢道というものは、そもそもそのこと自体の上達を目的としているんじゃないのか!」ということに気が付きました。目的地はみんな同じ山の頂上で、そこに登るにはたくさん道はある。そして、頂上に近づくほどお互いの道は近くなって同じような景色が見られるようになっているということではないでしょうか?

 ずーっと、華なんか生けるのになんの意味があるのか?ただお茶を点てるだけのことを何を小難しくしているのか?というふうに考えていたけど、何かナゾが解けたような気がしました。