ここのところハエトリグモが居ついています。一度窓から外に逃がしたはずなんですが・・・。なぜかまたいました。外に追い出そうと紙片などを持って窓の方へ誘導するのですが、クモの知能というのか、なぜか必ず追いやりたい方向とは逆に逃げようとします。こちらとしては安全に外に出してあげると思っているのにその親切心は伝わらない。「敵の誘導はワナに違いないから逆に行け!」という本能みたいなものがあるのでしょうか?そういう行動プログラムがあるとしたらそれも大したものだと思います。

 このハエトリグモというのは、前にイラストで描くことがあって、ちょっとネットで調べたりしました。下のイラストのように目が前に4つありますが、後ろにもあって全部で8つの目があります。そして結構かわいいんです。それからハエトリグモがいてもあまり嫌な気もしなくなって、放っておいたりしています。気が向いて外に追い出せそうな時に追い出すようにしています。その時描いたイラスト↓ 目が複数並んでいる感じが独特の雰囲気を醸しだします。エヴァンゲリオン弐号機も4つ目なのですが、もしかしたらクモから着想しているのかな?
 ※イラストの下にスペースを空けて家にいたクモの写真がありますので苦手な人は注意。

家にいたやつ↓↓↓↓


 こんな状況が実際にあるとは思っていなかった。「生卵とゆで卵が混ざってしまった。生卵を使いたいのだが・・・」

 昨夜、ゆで卵を作っておいて、2個のゆで卵が調理台に置いてありました。それとは別で目玉焼きを作ろうと生卵を持って来て、フライパンに割り入れる前にちょっと調理台に置いたんです。すると2個のゆで卵とごっちゃになって、どれが生なのかわからなくなってしましった。

 「そんなあほな。でもたぶん一番手前に置いたはずだから、生は一番手前でしょ」
と、一番手前のを手に取ってフライパンに割り入れようとしましたが、なんか出てこない。そう、それはゆで卵でした。
 「まじか💦」
 残る2つの内1つの生卵を選べば良い。さすがに一番奥はないなと思ったのですが、ここで生活の知恵「生たまご・ゆで卵の判別法」を思い出しました。この方法、確かに良い方法ですが、実際の生活で生たまごとゆで卵を判別しなければならないシチュエーションなんてある?(無いでしょ)とばかにしていたもの。しかし、今まさにそのシチュエーションが目の前に。

 早速その方法を実践します。たぶんこっちが生たまごと思う手前にあった方を持ってテーブルの上でたまごを立てて回すと、クルクルと回転します。えっ、ということはこっちがゆで卵?!  次に奥に置いてあった方を同じように回すと、こちらはすぐに横になってしまいます。ということは明らかにこちらが「生」。そう、僕が思っていたのとは逆だったのです。

 ということで、結局「使うことない」と思っていた生活の知恵がまんまと役に立って生たまごをあてることができました。こんなたまごが混ざってわからないなんてマンガみたいな状況が起こるとは思ってもみなかった。


 ツイッターでコーヒー豆を自分で焙煎している人が「手焙煎マンドリン深煎り」って投稿していたんです。「コーヒー豆はマンデリンでしょ」と思ったのですが、僕もちょっと前までキッチリ把握していなかったという話↓。
※さすがにマンドリンとは勘違いしない。

 ぼんやりとマンリンとマンリンを同じようなものと捉えていた(数年前まで)。
 コーヒー豆の品種(生物学的「種」ではない)の一つがマンリン。インドネシア産でマンデリンはインドネシアの地方の名前だそうです。
 一方マンリンの方はマンダリンオレンジとか、マンダリン航空とか、マンダリンホテルとかで聞くことがあります。なんとなく同じ東南アジアっぽい印象だからマンデリンと同じ感じで捉えていたんですね。別ものだと考えもしていなかった。マンリンとは元々は「中国官吏」の意味だそうです。なんじゃそれって感じ。中国の役人。そこから「中国の〜」や中国語を指すようにもなったそうです。知らなかった。

昨日、こんなツイートをしたんです↓

 日経サイエンスに載っていた記事を読んでこんな感想をツイートしたんですが、ホントはもう少し先の妄想を書きたかったのです。日経サイエンスさんにリツイートされるとその先のフォロワーさんの目にも触れるので、あまりへんな妄想は書けないと思い、妄想の方はこちらのブログの方だけに書こうと思います。

〜〜ここから妄想〜〜

 その妄想というのは

このように『身体の方では自分ではない膨大な数のウイルスが自分の細胞と一体となって私を形成している』となると、心の方だってそういうことがあるのでは?
ということです。そもそも「自分の心は一個」という捉え方すらへんなのかもと思ってしまいます。心は数えられるものなのでしょうか?どうやら心には一個に統合する作用があるようで、自分には心が一つであると見せてかけていますが・・・。 なんとなく「意識の素」のようなものがたくさんあって、それらを統合したものが意識、心というものになっているという気がしています。そしてこの「意識の素」は単に脳細胞の電気信号だけではなく、脳細胞以外の細胞にだってあるような気もしますし、体中の化学物資の状態にもあるかもしれない。そして最初に紹介した論文からすると、体内に共生している”自分以外の存在”のウイルスからも影響を受けているのではと。そのウイルスも含めて自分の心となる。そうなるともう「自分とは何?」という感じになります。そんな妄想をしたのでした。 生物学者の福岡伸一さんは「動的平衡」という話で「体を構成する物質は1年も経てば全部置き換わる」と言っていました。自分という確固たる物があるという考え方は実は間違えで、常に入れ替わっている「現象」に過ぎないということ。僕の上の妄想も同じようなことなのかな。確固たる「自分の心」が存在していると感じているけど、一度疑ってみるとその自信が無くなってきます。心もただの動的な現象と捉える方がいいのかとぼんやり考えました。

 毎月連載でイラストを描かせていただいている日経サイエンスで、おもしろい記事があったので紹介します。2年前の号ですがすみません。

 タイトルは「ネコは自分の名前を聞き分ける」←日経サイエンスの記事概要ページにリンクしています。
 内容はタイトルの通りで、人が猫に向かってその猫の名前と、また名前とまぎらわしい言葉とをランダムに呼びかけて、名前を聴き分けられるのか?という実験をしました。というものです。
 結論は「ネコたちは自分の名前を聞いた場合のほうが似た単語や他のネコの名前を聞いたときよりも,より明白な反応(ニャアと鳴く,耳や頭,尻尾を動かすなど)を示した」ということです。
 心理学や行動科学などのこうした実験はよくきくのですが、この実験で本当にそれが言えるの?(結論づけられるの?)というところがいまいち納得できないことが多い(ガチガチの科学的な実験と違って、「こうだからこう!」という論拠がふんわりしている気がする)。ビデオ観たらわかるけど、4の「バイオリン」以外は全部反応はしているでしょw。名前の時だけはその後歩いたけどさ。

 でも、実験動画がなごむのでまぁそれでいいです。